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「衆愚」について

今日は「衆愚」について考えてみようと思う。

 

「衆愚」であるための条件は2つ

グループであることと、愚かであることだ。

 

「衆愚」の生態について考えてみよう。

 

「衆愚」は、主張と論理の自己点検をする習慣を持たない。

 

「自分の意見に、偏見や思い込みはどれだけ含まれているだろうか」という思考に至らない。

 

「自分の発言の正当性」は、「自分と同じ意見を持つ人が何人も居ること」によって担保されているからだ。

 

「衆愚」にとって、「自分と異なる意見を持つ人」はすべからく「敵」であると認定される。

 

「衆愚」の脳内では

「異なる意見を持つ人」と「気にくわない人」は同義語だからだ。

 

「衆愚」が「敵」を見つけたときの行動は限られている。

「論理の根拠を要求する」

「罵倒する」

「嘲笑する」

などである。

 

これらの行動の主な目的は、「相手を疲労させ、弱らせること」である。

 

「衆愚」は、弱っている人間が大好物である。

なぜなら、反論をする体力が残っていないため「衆愚」の気の赴くままに叩きたいだけ叩けるからだ。

 

「衆愚」は、冷静で論理的な人間が苦手だ。

論を突き詰めていくと、「衆愚」の方が分が悪いことを心のどこかで分かっているのだろう。

 

「衆愚」には、「争いをなるべく避けるために、意見の合わない人とは距離を取る」という選択肢は存在しない。

 

主に行うのは、「晒し、吊し上げ」「集団的言論暴行」「ひたすら馬鹿にする」などである。

 

 

 

「衆愚」の辞書には「生産的」「建設的」という言葉は無いようだ。